生きるのが面倒な時
死にたい、ではないけど、生きていたくないな、と思う時はありませんか?
私はよくあります。
ホームに飛び込もうとする類ではないので希死念慮ではないのでしょうが、
私が私であることに何の意味があるんだろ。無いな。え、生きるのめんどくさ、自分が自分であろうとするこの気持ちが嫌だ、、、でも痛い思いして死ぬほどでもない、、、、
…と、なるのです。
正直程度の差こそあれ誰でもそういうことってあると思います。
自分が自分でいるのって時々びっくりするくらい煩わしいです。
そういう時って人にその旨を話しても正直どう返されたら溜飲が下がるのか自分でも分かっていないのですごくタチが悪い。
言われた相手が気の毒だなぁと我ながら思います。
特に解決策があるわけでもない。
一過性のものだと分かってはいる(し、そう思いたい)ので、イヤ〜〜気にしないで行こう!!!とか自分に対して言いたくもなるのです。
…でもそういうのって大体うまくいかないです。
無理して気にしない気にしないと思っても、自分に嘘がつけない人だと何かしらの形で表に出ます。
なので、そんな時って、もうできることないです。
ダメなんだからダメ。
他人に寄り添わせようとすると翌日あたり自分が後悔することになります。
…そんな時はもう、とことん自分の「生きてたくない」に付き合うしかないのでしょう。一人で。
「本当生きるのめんどくさい」「わかる」「今は無理に気分上げなくていいっしょ」
ちなみに今回は「何でも分かち合える気心知れた同性の友人」というイメージです。
前回の記事で怒りや悲しみに向き合う時は子供と大人というイメージで向き合っていたのに対し、今回は同年代の友人になりました。不思議です。
そんな自分の「生きてたくない」の存在は、なにより生きている証なのでしょう。自分の形がきちんとあるからこそ、時々その形でいるのが面倒になってしまうのかもしれません。
向き合い方は本当に人それぞれですし、人と完璧に寄り添い合うことも極めて難しいですし、多分死ぬまでこの感情はつきまとうものでしょう。
日頃すごいなぁと思っているあの人も、キラキラしているあの人も、時々「生きてたくないなぁ」と思って過ごしているのかもしれない。
一つだけ救いになるだろうか?と思う点を挙げると、「生きていたくないな」の波が過ぎた後の心って少しだけいつもより穏やかです。
まあ、生きるのってめんどくさいですよね。
でも、こんなに面倒なのに生きている。
ほんと偉いなと思います。
この文章は電車に揺られながら書きました。
同じ車両にいる沢山の働く人も、一人一人に形があると思うと、偉いなあという他ありません。