愛をくださいというひとりごと
今回のブログは独り言です。
公に対して伝えようとする内容というより、私が本当はこう思っているということを忘れないように書き留めておこう…というものです。
それを私以外の誰かが読みうる可能性がある状態にするのが、なんというか、大事なのかなあ、と思います。
独り言というのはズバリ
私は愛情が欲しいな
ということと、
そして、愛情を求める私を私は認めたい
ということです
愛情を求めることにとても勇気を必要とする人は一定量います。
1人でいるときは
愛情が欲しいなぁ、
自分のことを無条件に包み込んでくれるような存在が欲しいなぁ、
一緒にいて安心できる人と一緒にいたいなぁ
と思うことができます。
ただ、親とそういうことを話してるとなかなかそれが表に出ないのです。
親との会話の中で自分はそういう事を思う存在だと認めるのが、とても怖いのです。
また、気のおけない友人と話していても、彼氏がほしいとか結婚したいとは言えない自分がいます。
いたら楽しいのかねー、で止まってしまうのです。
欲しいと言ったところで手に入るものじゃないし、と思ってしまう自分がいるのでしょう。
私の親はそんなにたくさんスキンシップを取る親ではありませんでした。
赤ん坊の頃は特に放棄などせず育てられたとは思うのですが、その後あまりスキンシップをとったと言う記憶がないのです。
私は私で自分からもっと抱っこしてとか言った訳でもなく、振り払われたと言うわけでもありません。
ただ本当はそういった温かさが嫌いではないのだろうな、と思うのです。
誰かにぎゅっと抱きしめられたらきっと落ち着くだろうし、嬉しいだろうな。
…ただ今まで自分がそういう人間だというふうに感じる機会はありませんでした。
第一子だということも影響するのかもしれませんが。
これは初めて聞いた話だったのですが、私から見た祖母とあまり仲良くない母親もまたあまりスキンシップを取られていないで育ったようで。
ただ彼女は「マリア様」という清らかな像に抱かれるイメージはしていたようで、それで事足りたのだということでした。
私と母の間にあるのは、そこの温度差なのかもしれません。
食べたことのないものの味を求められないように、与えられた事のない暖かさを求めるというのが難しい場合もあるのかもしれません。
試しに私のことを抱きしめてもらったのですが、なんだか体がリラックスできなくて、何かを跳ね返しているような気がしたのが切なかったです。
ただ、私はきっと、自分がぬくもりに救われる人間であり愛情を欲しているということを忘れてはいけないのだと思います。
そこを認めたら私はきっと飢えを覚えることになる。
渇きを感じることになる。
それでもきっと、その穴を埋めたいと願い動くのが私が私を生きるということなのだと思います。
それに、欲しいという心の声に耳をすませば、直接触れるという形に限らず今より人の好意を受け取れるようになるかもしれません。
今までそういう愛情を欲しがるとかそういうことを「生臭い」と思っていたフシがあったのですが、細かいこと考えず、
大事にされた〜〜〜い
愛が欲しい〜〜〜〜
ということからなのかな、と思います。
寂しくたって、欲しがりだって、嘘偽らざる本音は、きっと人を動かします。