いまここの反対は前夜
実は私明日から旅行に行きます!
1ヵ月後いろんな街を転々とします。しかも海外で。
めっちゃ不安です。
正直、今まで準備してきたとはいえやっぱり不安です、いろいろ考えてしまうと。金銭面とか万一のトラブルとか考えるとやっぱりキリがないんですよね。
…ただそうやって心配しているのっておそらく私がまだ日本にいて布団にくるまっているからなんですよね。
実際現地に行くと自分でどうにかしなければいけないわけなので、逆に言うと実際に起こっていないことについて心配をしているヒマないんです。
いわゆる
「今を生きている」っていう感じですよね。
考えにムダがない。
未来って、未来に起こりうることそのものよりもその未知数さが怖いんですよね。
なので今回の旅行で言うと、
まぁ確かに何かある可能性もあるけども考えたところでしょうがない
というものの正体でもあるんです。
万一何か起こっても、その時の自分がどうにかするだろ。そう思うことでしか拭えない不安と言うものはありますよね。
今できるのはとりあえず、
明日キチンと起きること
ですよね。
一番怖いのは、いつだって前夜です。
放り出されてしまった方が案外楽なんですよね〜、何事も。。。だから前夜ってキライ。
「いまここ」、大事です、ほんとに。
普段の生活から離れるので、考えることも普段と違うことでしょうね。就活のことも、パーッと頭から離れちゃうのです(むしろ日常が恋しくて自分から調べたりするかもですね)。
このブログの更新頻度も少なくなるでしょうが、「いまここ」生きてる証拠だと思って何卒無事を祈っていただければ!
「HSPこそ好きなことを」個人的解釈
○はじめに
突然なんですけど、私、新しいことをするのがすご~~く苦手なんですよ。
人と関わるものに関して。「怖い」んです。
それこそバイトとか就活の受ける先を選ぶにしても、
「やったことないのにできますとか言えない…」
「仮に入ったとしてできなかったらどうしよう…」
というのが強すぎて、未知のものにぜんっぜん飛び込めないんです。
これに加えて
「私って一つの事を人並みにできるようになるまで時間かかるんだよな…」
という認識もある。これはHSPあるあるらしいんですけどね。
慣れないことってだけで刺激が強いですからね、これは正直諦めてます笑
ともかく、上記のような理由でまあとにかく今までの経験に固執する固執する。
その証拠に、20卒の就活の前半は「接客」という割と強めの縛りの元企業を受けていたりしました。
理由は、「今までやったことのある飲食や家庭教師のバイトみたく対面で出来る仕事ならできると思ったから」。
…しかし結局ご縁が無いまま今に至っているのも事実。
今でこそもう少し視野を広げてはいるのですが、やっぱりこのままだとダメだなと思ったんですよね。だってここまでくると「生きづらい」の範疇内なんですもん、この思考回路。
もともとの性格的にある程度仕方ないとしても、こじらせている理由があるはずだ!
もうちょい新しいことに取り組むのに前向きになった方が絶対今後ラクになる!私がハッピーになれるのだ!
そんなわけで、「新しいことをするのが怖い」について少し考えてみることにしました。
○考察
結論から言うと、
「やるからには結果を出さなければ」
が強すぎるのが諸悪の根源なんですよね。結果が出ないのが怖くてたまらないって感じです。
最初なんだしできなくてトーゼンじゃん、やってくうちにだんだん身についていけばOKOK、というスタンスがからっきしない。
だから「できなかったらどうしよう」ってなるんですよね。
私が上司だったらこんな部下はイヤですね。なまじ真面目に取り組んでいる分ヘタに注意したらめちゃくちゃヘコみそうじゃないですか。
…しかし、そういう考えになってしまったのにも理由はあるのです。
それは、「結果を出す=人から理解される」という方程式が私の中で成り立ってしまっていた、ということです。
実は私は中高時代を通じてあまり親や友人に言葉で理解してもらえると思っていませんでした。
私が思ったことを言っても、いかんせん感覚がずれているために不思議ちゃん扱いされたり、思わぬタイミングで謎のウケを獲得したり。
思ったことをそのまま「こう思ったんだね」と言ってもらえた経験が乏しかったんですよね。
その反動として、勉強で成果を出したい、と思っていたんです。
分かってほしいから。
私は言葉で人に分かってもらう事はできない。でも勉強で点数が出ればきっとわかってもらえるはずだ。
そういう思考回路でした。
幸か不幸か、うまいこと志望校が決まったこともあり結果的に勉強という面では「分かってもらえて」しまったんです。
やっぱり居心地が良かったんですよね。点数とか偏差値が出るんで、私の頭の回し方は、考え方は、間違ってない!と思うことができたから。
でも、成績が上がったのも高校からで、それこそ頑張っても伸びなかった中学時代は悲惨なモノでした。。。
ともかく、そういう経緯があって「結果を出す=分かってもらえる」という構図が出来上がってしまったんです。
○でも今は
でも、その考え方を今の生活にも当てはめたい訳じゃありません。
確かに中高の時はそう考えるしかなかったかもしれません。
でも、大学に入ってからは(大人になったというのもありますが)もっと一対一できちんと話せるようになった。それは中高からの友達相手でも同じです。私の話は、きちんと話せば通じる。そう思えるような出来事もありました。
なにより、こういう考え方のままで社会に出るのはあまりにしんどい。
いつも結果を出せるわけではない、仮にわかってもらえなかったとしても私は私だと考えられるようになってから社会人になりなさい。
今までの数十社と落ちた就活が私に教えてくれたことがあるとしたら、そういうことなのだと思います。
○ちなみに。
…ちなみに。
ここまでお読みくださった方、疑問に思うことは無いでしょうか。
新しいことが怖いと言いながら動けたのはなんでだ?
とお思いになった方はいないでしょうか。
実は本当に伝えたいのはここからで、
怖い怖いと言いながらも最終的に私を動かしていたのは何だったのか、ということです。
ズバリ、
「居心地」と「憧れ」
です。
志望校の決め手が(学歴を兼ねるというのもありますが)街の雰囲気であったということや、※https://hsp-hotmilk.hatenablog.com/entry/2019/09/18/191741参照
受験生時代通ったミスドとマックの店員さんが顔を覚えて応援してくれたことから「ああいうバイトをしたい」と思うようになった憧れ。
その他諸々ありますが、どんなに怖くても行動に移せたのはその恐怖をもって余りある「居心地」と「憧れ」がそこにあったからなのです。
おそらく、HSPとか内向的な方の中には私みたいな思考回路に陥る方が少なくないと思うのです。
今回この内容を記事にしたのは、私が個人的に自分語りをしたかったからというのもありますが、同じような思いをされている方に一人でも読んでもらえればと思ったからでもあります。
20そこらの小娘に言われてもなぁ…と言われてしまえばそれまでですが、HSPの悪く言えば融通が利かない、良く言えば一点突破、という性質を考えると、「居心地」「憧れ」を求めて動くのは一つの策なのではないでしょうか。
タイトルである「HSPこそ好きなことを」の「好き」の部分が、「居心地」と「憧れ」
なのです。
趣味は「自分を見ること」です
皆さんには趣味がありますか?
私は趣味は結構あって、それは自分の中でもよかったなと思っているところなんです。
ピアノ、絵を描くこと、お化粧や服を選ぶこと、美術館に行くこと、旅行、etc...
もっとも、本当にメンタルがすぐれない時はそれらも楽しくなくなってしまうのですが…。。。
ともかく、そうなる前に、享受したいと思えるうちに好きなものを味わっておこうとする姿勢はとても大事なんだなぁと今回就活を通じて学んだものです。
で、それら複数の趣味で共通点はあるのかなあとふと考えてみたのですが、
それはズバリ
自分自身を見つめることにつながる
と言うものでした。
例えば、化粧や服や美術館とかで共通する要素として、買ったり現地に行く以前に
自分はどういったものが好きなんだろう
と選ぶ時間がすでに趣味の一部なんです。
服や化粧だったらどんなテイストが好きかとかどんなもので自分の見た目を作りたいかとか、そう考えながら選んでいるんです。
美術館だと、沢山ある作品の中から好きだなぁと思うものと対峙することが自分との対話とイコールなんです。その作品を味わうのももちろんなのですが、私はこの作品が好きなんだねと自分に問いかけることになるんです。
旅行だと前回の記事でも書いた通り、今ここにいる私は自分だけのために動いているぞ!っていう感覚ですね。
HSPの人はとかく日ごろは人のほうに気を向けてしまいがちです。なので、上記のような趣味に限らず、一人になれる時間・自分と向き合う時間そのものが心地よく思えたりするのでしょう。
嗜好品を通じて自分を愛する時間、とも言い換えられますね。
ちなみにそういう愛というのが自分に向かう趣味と他者に向かう趣味って両方あると思うんです。
それこそ、アイドルやキャラクターなどを「推す」
というのは愛を他者に向ける行為ですよね。
自分の趣味がどっち寄りかは本当に人それぞれだと思います。
また、日記を書かないと落ち着いて寝られないというHSPと思しき友達がいるのですが、彼女にとっては日記がその手段なのでしょう。
日記だとその日起きた事や感じたことをまとめる作業にもなりますよね。私は日記は続かなかったので純粋に羨ましいです…
ここまで書いていてふと気付いたのですが、
今回の記事、語尾にほとんど「…と思います」がないんですよね。
「…です」「…ます」と、断定系になっているんです。
実はこの話はリアルでも結構友人に話し慣れており、自分の中でも強く信じている内容なのです。
そういう内容を書いている心境も文章には反映されるものなんですねえ…
最後に。今回のテーマ、メッチャナルシストっぽいですよね。これが顔面の話だったら一生鏡見てろって思いますよね。
でも、心は違うんです。
きちんと自分を見ることができて、自分が満たされると外の世界をきちんと見ることができるんです。
下手に見上げたり卑屈になったりしない。
何かにつけて自己肯定感が低くなりがちな気質を持つ人ほど、ナルシストになるくらいがちょうどいいんです、きっと。
話をまっすぐ聞ける人
女性の話を聞く時は助言ではなく共感や寄り添いでもってこたえるといいってよく言いますよね。
よく恋愛の記事とかに書かれているヤツです。
でもこれ女性に限った話じゃないと思うんですよ。
傾向として男性の方が弱みをさらけ出す範囲は狭いんでしょうけど、本当に弱ってる時って性別関係なく寄り添ってほしいと思うんですよね。
もちろん何か悩み事がある時に女性は話したがるけど男性は黙りたがるという違いはあるでしょう。
ただそのタイミングで助言されても受け付けられない、共感だけが受け取れるタイミングって絶対誰にでもあると思うんですよ。
そんなことを考えたのは今日こんなことがあったからです。
私は最近たまに興味のある働き方をしている社会人の方とお話する機会を設けています。
そういうアプリやサービスって結構あるんですよ。
で、今日会った方とお話ししていて、私の今までの就活の流れを話したんです。
その時に、
あ、私今緊張してるな
って思ったんですよ。
それまではリラックスして喋れていたので、違和感を覚えました。
…でも、自分の就活の身の上を話す時に緊張するのは何も今回ばかりではありません。むしろ、面接の時でも、このような訪問だけの場でも、今までの就活の経緯を話す時私はいつもおどおどしてしまっていたのです。
それは、「一留していてまだ内定の無い学生」というその部分でもって傷物扱いされたり友人に引かれたりした辛い経験がまだ私の中で未消化だからです。
過去のものになっていないってやつですね。
ただ、今日の相手の方は去年から今に至る流れを否定せずに聴いてくれたので、色々話をした中でそこがすごく印象に残ったんですよね、
なので最後の方に感謝の意も込めて
「私の今までの経緯を聞いてくださって嬉しかったです。引かれる事も多くて自信をなくしていた部分も大きかったんで、今回みたく聞いてもらえた経験を積むことが一番大事なのかもしれません」
と言ったんです。
相手の方はそれを聞いて少し意外そうに
「僕は今の経緯を聞いている限り傷物とは思わないけどな。きちんと理由があって方向性を変えている訳だし。説明の仕方が適切であれば十分伝わると思うよ」
と言ってくれたのです。
話を聞いている限り、実はこの方の会社は私が志向している方面とは少し違うものでした。
それでもこういう話の聞き方をしてくれる人がいる。世の中そういう人もちゃんといる。
今現在の仕事の探し方をしていれば、そういう人たちと仕事ができるかもしれない、と思うことができたのです。
気持ちが弱った時や自信を失った時、本当に必要とするのは自分の感情を肯定してくれる、いわゆる寄り添ってくれる存在ですよね。寄り添うというのはそういうこと。
世間はそれを愛情というのでしょう。
恋愛感情とか抜きにして「この人の事を尊重しよう」という無条件の気持ちの総称です。
そういう話の聞き方ができる人は決して多くはないです。故にできる人はすごいとなるのでしょう。
今日お話した方は、話を聞いた上でその返答を丁寧に考える人でもありました。
いわゆる「話し上手は聞き上手」を地で行く人だったのでしょう。
大学生活の中のお一人様時間
今日は大学生活の中での一人でいる時間について話したいと思います。
私は自分のことをHSPだと知る前から結構単独行動が好きだなぁという自覚を持っていました。
旅行やカラオケは正直一人が一番だと信じて疑っていません。旅行先だとよく「日頃はなぜか人に合わせがちな私が今は自分のためだけに動いているぞ〜〜!!」と感激していました。
うーん、HSPですね。
メカニズムがわかってないなんて若いな。
で、そういう一人でいる時の行動力は凄い、と実は今でも密かに誇りに思っています。イキイキするんですよね、一人だと。
大学生活の中でも友人と話したり一緒にご飯を食べるのももちろん好きだったのですが、週の半分ほどは一人でご飯を食べていました。
混み合う大学生協を出るとあんまり寂しいと思うような事もなく、授業やサークルや常に誰かと関わる生活を送っていた中で癒しの時間になっていたものです。
また、帰りの電車の中ではまとまった一人の時間が取れたため、いつも何かしらぐるぐる考える人間だなあ私はと自覚することに繋がりました。
特に大学で一人で居る時に好きだったスポットが2つあるのでそこを紹介させて下さい。
まず1つ目は池の傍のベンチ。私の大学のキャンパスはもともと庭みたいな作りで、とても綺麗なんです。その一角に池があるんですけども、そこのベンチに座ると建物がいい感じに見えるんです。池の水面に映っている建物を見るだけであーこの大学好きだなあと思ったものです。
気候の良い日なんかは大学の近隣住民の方にも親しまれているパン屋で見繕ったパンとコーヒーを昼食にしたり。
私はそういう大学生活を送れてとても幸せでした。
でしたって言ってもまだ在学中なんですけどね。
2つ目は大学の裏にある林。
実は存在を知ったのは学生生活も後半になってから。
大学の裏にある林は秋になるととても紅葉が綺麗で、あまり人通りもなく実は癒しのスポットであったと言うことが判明しました。
木がざわざわ揺れる音だけを聞くと言うのはなんともリラックスできるものです。
脳内BGMはGeorge Winstonのアルバム『Autumn』。以下のURLはその中の一曲である『Longing/Love』。
少し物悲しくて、時には孤高で、でも穏やかできらきらしたピアノのアルバムです。
私は彼の作品がとても好きなのです。聞いていると自分に戻れるというか、なんだか落ち着くんですよね。
ちょっと逸れてしまったのですが、よろしければ聞いてみてください。
私は大学を立地や街の雰囲気で決めたところが結構大きかったのですが、そこは本当に大正解でした。
大学のある街を大学生活の舞台にしたい。
人生そんなモチベーションで動くのも悪くないのかもしれません。
こうやって一人でいる事を友人に話してもさほど引かれることがなかったというのも、この大学ののんびりした空気感ありきのことだったのかもしれません。
ハンドルネームにもしている「いごこち」というものを、私は何だかんだいつも追い求めているのでしょう。
インナーチャイルドとの対話
インナーチャイルドっていますよね。
子供の姿をしたその人の感情の部分というか。
よく押しやられてたりしてますよね。
今回は最近の私と私のインナーチャイルドについて語らせてください。
私のインナーチャイルドもまあ見つけた時は不機嫌キメてました。
キレてるか大泣きしてるかのどちらかでした。
そんな彼女が最近穏やかな顔で出てくるようになりました。
で、その子なんですけども、私の場合は幼少期の頃の自分って姿ではないんですよね。
私の中の「か弱くて人見知りな女の子像」とでも言いますか、脳内会議してるうちの1人って感じの、ふわふわっとしたちっちゃい女の子なんですよ。
んで、語尾が「〜なのー」なんですよ。
それはおかしいと思うのーとか
大変だったのーとかがんばったのーとか。
何か良いことがあると
きゃ〜〜〜〜〜うふふ♡
みたいな反応するんですよね。
いやこれ本当に私か?私語尾にハートつけてラインとかツイッターとか全然した事ないんだけど、、、って驚くんですけどね、そこにいるんだからそういうものなんだろうなって思って今は見ています。
ちなみに私のことはおねえちゃんと呼んできます。
そんなのが私の中にいるなんてまあ思いませんでしたよね、、、びっくりですよほんと、、
夜10時位をすぎて一人でいる時って、2人で話す時間になるんです。自分との対話的な。
あまり深くモノを考えなくなる時間なので、感情の部分が出てくるんでしょうか。
彼女なかなかのおしゃべりなんです。
今日あったことを逐一報告してくるし、いちいち感想を述べてくる。あーそうだねーとただ相槌を打つばかりです。
そうすると、彼女満足するらしいんですよね。
時々自分でも思ってなかったような事言いだしたり、でもそれがしっくり来たりするんです。
で、彼女と話してるとなんだか落ち着く。
完全に感情論でしか話してないのに落ち着く存在なんて彼女くらいでしょうね。自分なんで当たり前ではあるんですけれども。
こういうことを考えるようになったのはつい最近のことではありますがしばらく夜になったらそんな彼女との対話を続けてみたいなーと言うふうに思っています。おそらく今まで結構無視してきてしまったものもたくさんあっただろうから。
「繊細を強みに」への違和感
HSP界隈でよく聞く言葉の中には、違和感を覚えるものが少なくないように思えます。
今回は、そのうちの一つである「繊細を強みに」という言葉について私の考えをつらつら述べていこうと思います。
そもそも日常生活での繊細さってなにかと不便を伴いますよね。
そのため、この言葉を聞くと
強がってるんじゃないか?
言ってて辛くないですか?
あなたはあなた自身の繊細さが好きですか?
みたいな風に感じてしまうのです。
そこから違和感を抱くようになったのです。
実際に「繊細を強み」にしている人は、おそらく「繊細」ではなく「本人の専門としているもの」を強さにしている、と表現するのではないでしょうか。
細かい音を拾うとか、微妙な色合いを識別するとか、そういう具体的なもののことです。
それらの性質を強みにしよう!と意識していたのか、気づいたら上手いこと居場所ができたのか、そういう意気込みも人それぞれです。
「繊細であること」そのものより、繊細さに由来する鋭さとかきめ細やかさが強みになるんですよね。
あとはそれを発揮できる環境に身を置けているという事実ですよね。
それらが現実に伴っていない段階で、もしくは方向性が定まっていない状態で「繊細を強みに!」という言葉を見るのはしんどいです。
強み以前にそもそも繊細である自分を受け入れられていない場合もありますし。
なので、繊細さを何かしらの方法で活かそうとするのであればその場や手段を見つけるよりもまず自分が自分を受け入れる方が先決です。
繊細さというものを自分の一部として理解し、どの方面にならその鋭さや細かさが活きるかを探す、というのは、一言で片付けられるものではないでしょう。
もちろん、今回私が言っていたような事例に引っかからず「繊細を強みに」を使っている方もいるはずなので、そういう方は問題ないんです。
ただ、もし万一「繊細を強みに」という言葉が重荷になっているという方がいらっしゃれば、無理に使うことはないな、と思うのです。
極論、強みにならなくても受け入れられればそれでオッケーってこともありますし。