いごこちのありか

就活を経てHSPの存在を知った者です。よろしくお願いします。

優しけりゃいいってもんじゃない

人より優しい人が優しくあるためには覚悟が必要だよなあ、と思います。


自分が思ってるより自分のことって丁寧に扱う必要がありますよね、私たち。

そのくせ自分のこと丁寧に扱えない人に大事にされても、イヤイヤまず自分のことどうにかしなよって思うでしょうし。


でも、自分のことを人と同じくらい大事にしちゃうと回らなくなっちゃうよな…

私は以前そう考えていました。

でも、それを世間が「無理している」という言葉で表す状態だと心から知ったのは最近です。

「与えよ、さすらば与えられん」という言葉がありますが、私の場合完全に意味を履き違えていたようでした。

無理なくサステナブルな優しさには自分への尊重が不可欠なんです。


HSPという観点だと、私は主にツイッターやたまに交流会に参加してHSPの人と接しています。

なんというか…みなさん、優しいんですよ。

会話の節々で

あ、善い人なんだなこの人、

と思わされます。

 


このアカウントを作って様々な方と接してきて、

ああ世の中こんな善良に生きようとする人がいるもんだなあ、

人によっては私みたいな考え方する人だなあ、

と救われることは沢山ありました。

 


ただ、それと同時にTLを見たり実際接すると何か違和感があるのです。

 


自分のこと大事にするのがマジ下手くそなんです。皆さん。人のことは慮るのに。

 


私自身を棚に上げてイヤここの人たち生きるの下手かよ〜〜〜と心で叫んだものです。

だからアカウントを持っていたり交流会に行ったりする訳なんですが。

 


高校、大学のリアルの友人用アカウントのTLでは自分はこう思う!!という表現がナチュラルなんですよね。

例えば、人身事故が起きると

電車遅延したわ無いわ〜、とか、○○線やっぱダメだわ、とか。

言葉に慈悲はありませんが、本当はこうだったらよかったのに、という像が明確なんです。

 


彼ら彼女らにとっては当たり前のことなのでしょうが、私から見ると自分を大事にしていることに他なりません。

図太い。これを気にしない人に私もなりたい。

HSPアカだと車掌さんは悪くないのに…みたいな呟きが散見されるんですよね。

 


でも、そんな事を呟く人も絶対心のどこかでは

もう帰りたいとか遅延かよ〜 と思ってもいるはずなんですよね。

 


そう思っているってことを自分で認められない人って、人のことを気にしていた方が善良な人間だよね?そうだよね?って思っている人なんですよね。

 


なんというか…潔癖だなあ、と感じます。

人と自分の間に差異があるってことについて。

 


よく「あるがまま感じたことを肯定する、受け入れる」なんて表現されますが、それをしきれない人がHSPアカには多いのではないでしょうか。

 

悲しかった、辛かったの一歩手前の「え?」や「は?」を感じられるだけでも違うんじゃないか。

私は最近の自分自身を振り返ってそう思います。

会えてよかった

 


突然ですが、私は友人に恵まれていると思います。

あの人に会いたいな、とふと浮かぶ顔がいくつかあるからです。

一対一で話している時、楽しかったり学びがあったり落ち着いたりできる関係性というのは何物にも変えがたいものでしょう。

そんな存在があるのはとてもありがたい事です。

内向的な私たちにとって、そんなに多く必要とするものではでしょうから、なおさら。

 


そのうちの一人が今日遊んだ大学の友達です。

彼女は社会人一年目で、たまーに東京に戻ってきたときに一緒にご飯を食べに行く仲なのです。

HSPではありませんが、人の意見を否定しないおおらかな子です。


HSPという言葉こそ出しませんでしたが、今までの私の就活の流れを

へえー、はあー、そうだねえー、

と聞いてくれるのです。

彼女は彼女でちゃんと喋るので会話のテンポ感が合うのでしょう。


就活生としての自分ではない、友人と対等に話せる自分の存在がいるんだと思うことができました。

頭がふわーっと柔らかくなる時間でした。

 

 

 

実は、就活を経て、私の周りの人間関係は結構変わりました。

私がHSPだと受け入れようとする過程の一側面なのでしょう。

 


特に大学でできた知人友人の中で、HSPっぽいないしそういう性質に理解のある人が残っていった体感があるのです。

繋がりが薄かった人や付き合いの中で無理していた部分があった人は、卒業という節目も関係しますが関わりがなくなっていきました。

同じ友人でも、接していて自分のどの部分が出るかが変わったという人もいます。

 


 また、自分がどういう気分の時どういう人に会いたいかという感覚が新しくできた気がします。

 


今まではそこに誘いや予定があれば基本参加するというスタンスだったのですが、

「○○ちゃんとは気分が乗っている時に会いたい」

「△△君はこういう相談に強い」

といった心の声が聞こえるようになったのです。

 


同様に、今まで良いところしか見えていなかった人にもしょーもないところがあるなあ…と見られるようになったりなどもしました。

 


無意識に相手を見上げ…いや、自分を一段下に置いていたんだなぁ、と反省したものです。

 

 

 

今現在はこれからも仲良くしたい!と思っている友人でも、これから疎遠になることは十分ありえます。

誰にも会いたくない、ないし今の自分と合わせるのは申し訳ない、と思う時もあります。

 


それでも他者と関われるのは嬉しいのです。

親の誕生日

母親の誕生日の食事会に行きたくないと言いました。


父、母、私の3人で母親の誕生日に外食に行く予約を入れたと言われたのです。

普段ならオッケーわかった位にしか言っていなかったと思います。

例年そんなもんだろう位に思っていました。

でもどうしてもうんと言えませんでした。

うんと言う前に

行きたくない、行きたくない、いやだ、と強く心が拒否してきました。

気づいたら眉が歪んでいました。

その3人でおいしいご飯が食べられると思えませんでした。

親にはその旨を伝えました。

誕生日を祝いたくない訳ではない。

でもそれをこの3人でご飯を食べるという形でやるのは嫌だ、と言いました。

 


最近親と話すたびに

この人の近くにいるとやっぱり私は私になれない、、、

と思うことが増えたのです。

 


誰が悪いわけでもない。

人と人との相性なのです。

本当に誰も悪くないのです。

でも私は私を幸せにしたいと考えれば考えるほど、帰宅時にお腹が痛くなる自分がいるのです。

この現象自体は去年の就活を終えた後からたまにあったことでした。

 


なので、親より自分のお腹を優先させました。

 


親は何か考えているようでしたが、少し経って

いやまあ…そんなに嫌ならいいよ…

と呟いていました。

ちょっと寂しそうに見えたのは、私がそう思いたかったためだったのでしょうか。

 

 

 

親の誕生日に一緒にご飯を食べられる娘でありたかったな。

親不孝だろうな。

 


…でも、親不孝だろうなとか思うと、なんだか自分に酔っているみたいで嫌です。

親不孝以上に自分不幸になりたくないのです、私は。

 


ともかく、誕生日にご飯に行かずに済んで、私はとても気が楽になりました。

自分を自分で守ることができました。

これでよかったんです。

 

…ここいくつかの記事の内容を改めて文字に起こすと、私は本当に親を好きである子供でありたかったのだな、と思わずにはいられません。

 

久々によしながふみとか山岸凉子を読みたいな、と思いました。

親から見ると

昨日はHSPの私から見た非HSPの親についての記事になりましたが、これが逆の立場だとどういう見え方をするのかということにも思いを馳せてみました。

 


というわけで、今回は非HSPの親から見たHSPの子供ってどんななんだろうな、という文章です。

私自身はこうだったという主観の元書いているので、客観性は皆無です。

 

子供がHSC的な要素を表に出すとき。
まず第一に、心配になると思います。

ウチの子の考え方ってなんでこうなの?

なんでそんなことで怒るの?

普通こうじゃないの?

 


…とにかく、「普通」こうじゃないのかな、というのは強いと思います。

そもそもの物の感じ方が違うのでしょうがない部分ではありますが、やはり子供には社会に適応してほしいと思うのが親でしょう。

あやすのが難しいとか臆病だとかどこかしらの時点で

ンン???となるタイミングはあるのではないかな、と思います。

ADHDなどにも当てはまるかもしれませんが、赤ちゃんの段階での検診には引っかからなかったんだけどな…と。

最近本屋でも平積みされているのを見るようになったHSCの本とかはそういう親御さんが手に取るような見出しや帯になっているのではないでしょうか。

 


第二に、この子育てづらい…が来ると思います。

これは娘である私自身が「私が子供だったらめんどくさいだろうなあ」と思っていることにも起因します。

何しろ、自分が自然に与えられるものより多く、キメの細かい愛情を要求されるわけです。

家族という身近な関係性でコレはキツイのではないでしょうか。

親側からするとベストは尽くしてるのになあ、、、というケースもあると思います。

 


第一、第二の要素をどう捉えるかは親御さん次第でしょう。本人の気質を好意的に受け入れてくれる親御さんもきっとたくさんいるのだと思います。

 


ちなみに私の親はHSPについて深く理解し気持ちを極力汲む…というタイプはないので、

「分かり合えんな!クソ!!」

と思う時はザラですが、それ故に逆になるほどと思う言葉を返してきたりもします。

 


一番おおと思ったのは、

HSPの人って表情乏しそう」

という一言。

これは私の中から出てくる言葉ではありませんでしたが、交流会などで確実にHSPだという人と接しているとその表情は概して乏しいと感じたのです。

 


確かに、という返事が自然に出てきました。

 


いやだってHSPの感覚全開で日頃生きてたらついて行ききれないことって多いんですよね。

いちいち怒ったり傷ついてたりしてたら保たないんですよね。

表に出す出さない以前に、感じないようにしようとする方が実際なにかと楽だからHSPは苦労するんです。

そりゃー表情も乏しくなりますよね。

本当は並の人より多くのモノを感じているはずなのですが、皮肉なモノです。

 

でも、そういう内部事情はともかくはたから見ると「表情の乏しい人」。

そう見えるのか、と思いました。


まあともかくお互い自分の中には無い感覚で子供が世の中を見ているんですよね。

親と言えど一人の人。完全な存在ではありません。

「ウチの子分からんな…」

と思うのも極めて自然な現象であり、それ自体を責めてはいけないと思います。

とはいえ、

「分かってもらえなかった!」

が強い身から言わせてもらうと、

 


分かろうとしている姿勢

 


を見せるというのがキモだと思うんですよね。

実際には理解しきれない。でも、そういう気概はある。

それが分かるだけでも、救われるものはあると思うのです。

愛をくださいというひとりごと

今回のブログは独り言です。

公に対して伝えようとする内容というより、私が本当はこう思っているということを忘れないように書き留めておこう…というものです。

それを私以外の誰かが読みうる可能性がある状態にするのが、なんというか、大事なのかなあ、と思います。

 


独り言というのはズバリ

私は愛情が欲しいな

ということと、

そして、愛情を求める私を私は認めたい

ということです

 


愛情を求めることにとても勇気を必要とする人は一定量います。

1人でいるときは

愛情が欲しいなぁ、

自分のことを無条件に包み込んでくれるような存在が欲しいなぁ、

一緒にいて安心できる人と一緒にいたいなぁ

と思うことができます。

ただ、親とそういうことを話してるとなかなかそれが表に出ないのです。

親との会話の中で自分はそういう事を思う存在だと認めるのが、とても怖いのです。

また、気のおけない友人と話していても、彼氏がほしいとか結婚したいとは言えない自分がいます。

いたら楽しいのかねー、で止まってしまうのです。

 

欲しいと言ったところで手に入るものじゃないし、と思ってしまう自分がいるのでしょう。

私の親はそんなにたくさんスキンシップを取る親ではありませんでした。

赤ん坊の頃は特に放棄などせず育てられたとは思うのですが、その後あまりスキンシップをとったと言う記憶がないのです。

私は私で自分からもっと抱っこしてとか言った訳でもなく、振り払われたと言うわけでもありません。

ただ本当はそういった温かさが嫌いではないのだろうな、と思うのです。

 


誰かにぎゅっと抱きしめられたらきっと落ち着くだろうし、嬉しいだろうな。

 


…ただ今まで自分がそういう人間だというふうに感じる機会はありませんでした。

第一子だということも影響するのかもしれませんが。

 


これは初めて聞いた話だったのですが、私から見た祖母とあまり仲良くない母親もまたあまりスキンシップを取られていないで育ったようで。

ただ彼女は「マリア様」という清らかな像に抱かれるイメージはしていたようで、それで事足りたのだということでした。

私と母の間にあるのは、そこの温度差なのかもしれません。

 


食べたことのないものの味を求められないように、与えられた事のない暖かさを求めるというのが難しい場合もあるのかもしれません。

 


試しに私のことを抱きしめてもらったのですが、なんだか体がリラックスできなくて、何かを跳ね返しているような気がしたのが切なかったです。

 


ただ、私はきっと、自分がぬくもりに救われる人間であり愛情を欲しているということを忘れてはいけないのだと思います。

 


そこを認めたら私はきっと飢えを覚えることになる。

渇きを感じることになる。

それでもきっと、その穴を埋めたいと願い動くのが私が私を生きるということなのだと思います。

 


それに、欲しいという心の声に耳をすませば、直接触れるという形に限らず今より人の好意を受け取れるようになるかもしれません。

 


今までそういう愛情を欲しがるとかそういうことを「生臭い」と思っていたフシがあったのですが、細かいこと考えず、

 

大事にされた〜〜〜い

愛が欲しい〜〜〜〜

 


ということからなのかな、と思います。

 


寂しくたって、欲しがりだって、嘘偽らざる本音は、きっと人を動かします。

深い心が厄介な存在になる時

気持ちが後ろ向きになった時、どうやって対処すればいいのでしょうか。

沈みやすい人の対処法、向き合い方といいますか、あるんですかね。どうなんでしょう。

 


皆さんご存知の通り、気持ちが深い我々は沈んだ時とても厄介な存在に成り果てます。

たとえ誰かが相談に乗ってくれていたとしても際限なく落ち込み続けてしまうのです。

なぜなら私たちにも非があった、とかそんなことを気にしてしまう自分が嫌いだ、とか自分の思考回路をこじらせる傾向があるから。

同じ目にあっても、ひどいことがあったんだよもっと大事に扱ってくれてもいいのにと言える友人が眩しいです。

 


これを書いている今こそ人付き合いはそう多くありませんが、私にもサークルに属し人と沢山接していた時期がありました。少なくとも辞めずに続きはしたのです。

そこでよく人の相談に乗っていたのですが、相手も私を選ぶのでしょう、この人だったら否定せずに聞いてくれる的なポジションにいるのかなとたまに思う事がありました。

中高でもそういう子はいたので、そういう人を引き寄せるんだろうなという自覚自体はすでにありました。HSPとしてはあるあるらしいですね。

 


ともかく、「私にだから」話すのであろう弱音や愚痴というのがたまにあったのです。

 


もちろん、心を開いてくれている故と考えると悪くない気もします、

ただそういう話はやはりしんどい。ずっと聞いていると疲れてしまうのはこちらです。

その子も基本的には繊細ないし優しい子なので、本質的には似た者同士なんです。

ミイラ取りがミイラ、もといエナジーバンパイヤ取りがエナジーバンパイヤになってしまうメカニズムと言えるでしょう。

そういうのスパッと切れる人になるのはなかなか難しいです。

 


私たちは自分より心が浅い人の悩みは聞けますが、その逆はできません(年齢も関係するかもですが)。

しかし落ち込んだ時等しく人は自分で自分の機嫌を取る必要があるのです。

正直不平等だなぁと思うことは少なくありません。

 


それでも機嫌を取るにはどうしたらいいか。

 


好きなものがあってそれをやる、

寝れば解決する、

美味しいものを食べる、

人の数だけ答えがあるでしょう。

個人的には守るものの存在かなと思っています。

例えば今日のプレゼン失敗しちゃったけど明日また8時に起きなきゃなぁとか

子供がいれば明日のお弁当作るために今日はもう寝なきゃとか

毎日の生活のルーティンにあたる存在です。

今私は就活中で仕事を探している最中なのですが、そういう自分を立て直すものが無いんですね。

これはとても辛い。

今までずっと忙しくしてきた理由がなんとなくわかった気がします。

ルーティンの無い空白の期間を設けるのがとても怖かったんです。だって自分を支えられなくなってしまうから。

だから向いていようがなかろうがする事が無くなる事に比べれば忙しい方が幾分マシだったんですよね。

 


でも今は現に存在しない。

うーん、その居心地の悪さに抗う方法はないものか…

そう思うと、自分に相談をふっかけてきたあの子たちの顔が思い浮かんできました。

 


あの子たちも追いつめられてたのかな。

私が疲れてる事に気づけない程頭の悪い子ばかりでもなかったもんな。

相談に乗る私はどう映ったのだろう。

話すことで少しは救われたのだろうか。

 


答えは彼ら彼女らのみぞ知ることです。

 


私が想いを馳せるべきは、

ただ、人を疲れさせる人になってはいないか、

その疲れを味わった者として人に同じ思いをさせたいか、

そこだけでいいのかもしれません。

生きるのが面倒な時

死にたい、ではないけど、生きていたくないな、と思う時はありませんか?

私はよくあります。

ホームに飛び込もうとする類ではないので希死念慮ではないのでしょうが、

私が私であることに何の意味があるんだろ。無いな。え、生きるのめんどくさ、自分が自分であろうとするこの気持ちが嫌だ、、、でも痛い思いして死ぬほどでもない、、、、  

…と、なるのです。

正直程度の差こそあれ誰でもそういうことってあると思います。

自分が自分でいるのって時々びっくりするくらい煩わしいです。

そういう時って人にその旨を話しても正直どう返されたら溜飲が下がるのか自分でも分かっていないのですごくタチが悪い。

言われた相手が気の毒だなぁと我ながら思います。

特に解決策があるわけでもない。

一過性のものだと分かってはいる(し、そう思いたい)ので、イヤ〜〜気にしないで行こう!!!とか自分に対して言いたくもなるのです。

…でもそういうのって大体うまくいかないです。

無理して気にしない気にしないと思っても、自分に嘘がつけない人だと何かしらの形で表に出ます。

 

なので、そんな時って、もうできることないです。

ダメなんだからダメ。

他人に寄り添わせようとすると翌日あたり自分が後悔することになります。

 

…そんな時はもう、とことん自分の「生きてたくない」に付き合うしかないのでしょう。一人で。

「本当生きるのめんどくさい」「わかる」「今は無理に気分上げなくていいっしょ」

ちなみに今回は「何でも分かち合える気心知れた同性の友人」というイメージです。

前回の記事で怒りや悲しみに向き合う時は子供と大人というイメージで向き合っていたのに対し、今回は同年代の友人になりました。不思議です。

 

そんな自分の「生きてたくない」の存在は、なにより生きている証なのでしょう。自分の形がきちんとあるからこそ、時々その形でいるのが面倒になってしまうのかもしれません。

向き合い方は本当に人それぞれですし、人と完璧に寄り添い合うことも極めて難しいですし、多分死ぬまでこの感情はつきまとうものでしょう。

 

日頃すごいなぁと思っているあの人も、キラキラしているあの人も、時々「生きてたくないなぁ」と思って過ごしているのかもしれない。

一つだけ救いになるだろうか?と思う点を挙げると、「生きていたくないな」の波が過ぎた後の心って少しだけいつもより穏やかです。

 

まあ、生きるのってめんどくさいですよね。

でも、こんなに面倒なのに生きている。

ほんと偉いなと思います。

 

この文章は電車に揺られながら書きました。

同じ車両にいる沢山の働く人も、一人一人に形があると思うと、偉いなあという他ありません。